ぼちぼちダイアリー

とにかくなんか書いてみよう!

見ることは受け取ること

今日はスイスのアレクサンダー教師、ローザ・ルイザとのオンライン・グループミーティングに参加した。私が教わった海外のアレクサンダーの先生はみんな素敵な人ばかりだけど、ローザは特に私が大好きな先生の一人。今日は「見る」ことについての探究だった。

目のことは私が小学生の頃から悩まされてきたテーマ。私が子供だった70年代や80年代は、小学生の近視はまだ珍しい存在だった。小学4年生の時だったと思うけど、身体検査の後に視力が1.0を切っている子だけ集められたら、クラスの中で自分を含め3人くらいしかいなかった。私以外は勉強ができる子たちだったので、なおのこと恥ずかしかったのを覚えている。母には漫画ばかり読んでいるからだと怒られ、当時スターだった王貞治選手を引き合いに出して、「王選手は絶対に暗いところで本を読まないんだって」と指導されたものだった(昭和なエピソードですね)。でも私は母の言いつけをちっとも守らず、暗いところで漫画を読み続け(漫画を禁止されてはいなかったけど、薄暗いところで読むのが楽しかったのだと思う)、視力はどんどん下がっていった。

目が悪いので、よく見ようとし、姿勢が悪くなる。そして首や肩が凝り、頭痛がする。これが私が長年悩まされてきたパターンだった。

今日のローザは、ピーター・グルンワルドのアイボディ・メソッドを参考にしていると前置きしつつ、見ることについてのこんな実験をやってみた。

何かを見るときに「目で見ている」と思わずに、「脳の視覚野で見ている」と思うこと。視覚野があるのは後頭部のてっぺんあたり。目から入ってきた光は、視神経を通って後頭部にある脳の視覚野で情報として処理されている。視覚野を意識するために、後頭部に自分の手を置いて、「ここで受け取っている」と思ってまわりを見てみる。

それと比較する意味合いで、あえて「目で見ている」を交互に試してみると分かりやすかった。私の場合「目で見ている」と思うと、目のまわりや頭、首が途端に緊張して呼吸も浅くなる。この緊張状態は、あの「気を付け!」みたいなもの。何時間も続けられないし、続けたら身体も心もカチンコチンになってしまう。

眼球のまわりを覆っている網膜は光の受容体で、そのうち細部をハッキリとらえるための部分は中心のわずか5%。残りの95%は全体を立体的にとらえる役割を担っているという。ところが、私たちはふだん網膜全体のうちハッキリ見るための5%ばかりを酷使していて、ハッキリ見ることだけが「見ること」だと思い込んでいるのだという。

「目は単なる光の通り道、実際は脳で情報を受け取っている」と思うことで、網膜の残りの95%がいきいきと働き始めるのだった。ローザは「体を変える必要はないんですよ、意識を変えるだけでいいんです」と言っていた。確かに物質としての自分の体は同じでも、「思うだけ」で見え方が変わってくる。目の前のモノを「目で見に行く」と細部がはっきり見えて、「脳で受け取る」と思うと、まわりも見えてきて、それが「そこにある」と思える。そのモノの立体感や、視界の明るさや色の鮮やかさも増してくるのだった。

私はピーターのアイボディに何回か参加しているので、ローザが教えてくれたことは私にとってすでに知っていることではあった。だけど、みんなで一緒やると、そのたびに新鮮な体験ができる。カラダの学びは知識を得て終わりというものではなくて、その都度自分で新しい体験をし続けることなんだなと思う。

他にも面白いことがあったけど、今日はここまで。

 

写真は今日の夕陽。絵に描いたような光線に、祝福という言葉が浮かぶ。
空を眺めるときは、自然と光を受け取るときの目の使い方をしているな。

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