ぼちぼちダイアリー

とにかくなんか書いてみよう!

ファミリーヒストリー

このブログに父や母のことを書いたら、なかなか好評をいただいた。今日は母の命日ということもあって、ファミリーヒストリー風に、今生きている自分のことを考えてみた。

 

私の父は平壌で生まれた。当時は日本が朝鮮半島を植民地にしていた時代。多くの日本人が大陸で暮らしていて、父方の祖父もその一人だった。福島県生まれの祖父は東京の大学で土木を学び、結婚後一家で大陸に渡った。当地では橋や道路を作る監督のような仕事をしていたという。現在90歳の伯母は向こうでの生活を少し覚えているらしく、家にオンドルがあったことなどを懐かしそうに話してくれたことがある。

私の父がまだ乳飲み子だったときに、祖父は流行り病の腸チフスで亡くなった。それで私の祖母は4人の子供を連れて故郷の福島県に戻ってきた。たぶん昭和10年頃だと思う。いつだったか、伯母がしみじみとこんなふうに語っていた。「まだ戦争が始まる前だったからよかったのよ。戦後の引き揚げだったら、うちのきょうだいはみんな体が弱かったから、生きて帰れなかったと思う」。

私も本などを読んで、戦後の引き揚げがいかに凄惨を極めたかは想像できる。祖父が早くに亡くなったのは残念なことで、残された家族はその後大変な苦労をしたけど、もっと長い目で見れば、そのおかげで残された家族が命をつないだという可能性もある。そんなふうに考えると、人の運命は不思議と思う。

 

一方の母は群馬県の出身。母曰く、先祖は平家の落人だそう。確かに母の生まれた村はものすごい山奥で、ご先祖様は「さすがにここまでくれば追手が来ないだろう」と思ったのだと想像する。

母は4人姉妹の長女で、戦争で父親を早くに亡くした。祖父が亡くなったのは満州だったと聞いている。非常に体が丈夫な人だったそうで、真冬に夜間の見張りを体の弱い仲間の分まで引き受けて、そのせいで体を壊して亡くなったと聞いている。優しい人だったのだろうと思う。母は一家を養うために小学校の教師になった。

その母が若い頃、ある事件が起きた。その日は文化祭で、同僚の先生と帰り道を歩いていると、雨が降ってきた。そこへ1台のオンボロトラックが通りかかって、母たちに乗っていけという。運転していた男は同僚の先生の知り合いで、母は今ひとつ気が進まなかったものの、熱心に勧められて仕方なく乗せてもらうことに。荷台には幌がついていて、雨をしのぐことができた。ほかに居合わせた小学校の教え子2人と、知り合いのじいさんも荷台に乗せてもらった。

同僚の先生が先に降りたとき、母も一緒に降りたかったけど、男は家まで送ると言ってきかず、仕方なく送ってもらうことにした。母の村までの道のりは細くて曲がりくねった山道だった。しかし運転手の男はいいところを見せたかったのか、その山道を猛スピード走った。母が危ないから速度を落としてくれと頼んでも、目の色が変わってしまって何も耳に入らない様子。身に迫る危険を感じた母は、次のカーブにさしかかろうとする手前で、咄嗟に車から飛び降りた…!

次の瞬間、トラックは男を乗せたまま崖の下へダイブ。荷台に乗っていた教え子2人は、なんと着ていた服が木の枝にひっかかって一命をとりとめた。が、男とじいさんは助からなかった。母は脚全体をひどくすりむいて、傷跡を治すのに長い時間がかかったという。この事故は地元の新聞でも報じられ、母がひらりと車から飛び降りるところが、マントをはおったスーパーマンの姿で漫画に描かれたらしい。

私はこの話を子供の頃から何度も聞かされて育った。私は話の筋しか書けないけど、上州弁で語られる母の話には、もっと細かい描写があって味わい深かった。一緒に車に乗ったじいさんは昔熊に鼻をもがれて、煙草を吸うと顔にあいた2つの孔から煙がぷかーっと出ていたとか…。もうあの無形文化財のような語りは永遠に失われてしまった。

それはともかく、もし母が咄嗟の判断で車から飛び降りなかったら、母の命は助からず、当然父とも知り合わず、この肉体を持った私は生まれなかった。そう思うと、命は奇跡。いくつもの偶然が重なって今ここにある。

父と母と、ご先祖様にありがとう。

 

今日の夕方6時の空。1年前の今日、母は6時に流れる「夕焼け小焼け」を聞きながら旅立った。

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