ぼちぼちダイアリー

とにかくなんか書いてみよう!

銀座と父の物語

今日は歯医者さんの定期健診の日だったので、久しぶりに銀座へ行った。

私は30歳を過ぎてから歯列矯正をした。矯正をする前は、2本の前歯のうち1本だけが前にでていて、それが長年コンプレックスだった。歯列矯正は子供の頃に親がさせることが多いけど、私は大人になってから自分の意思で始めた。私の歯並びはそれほど目立って悪いわけでもなかったので、私の親は大して気に止めていなかった。それでも私も一応女子のはしくれ、見た目が悪いことは気になっていた。でも矯正したいと言い出せなかった。それは当時の私が親と素直に話せる関係になかったことと、あの銀色の装置を付けて学校でからかわれるのが嫌だったから。そうしてコンプレックスを抱えたまま大人になって、ある日ハッと気がついた。そんなに気になるなら、自分で治せばいいんだ、と。

私は30代になった頃から体調不良に悩まされるようになり、そこから健康関連の本を読み漁るようになった。その中で、かみ合わせが全身に影響することを知り、思い切って矯正をすることにしたのだった。日本で主流の歯列矯正というと、健康な歯を抜いて顎にすき間を作って歯を並べ直すそうだけど、私が読んだ本では、すべての歯には役割があるのだから、見た目のためだけに抜いてはいけないと書いてあった。私はその考え方に何かとても大切な、普遍的な価値を感じた。

いざ矯正を始めてみたら、何十年も悩んでいた前歯は最初の1カ月で治ってしまい、こんなことならもっと早くやればよかったとつくづく思った(今思えば、悩んでいた時間も決して無駄ではなかったけどね)。そこから全体のかみ合わせを整えるのに、トータルで4年。思い切り口を開けて笑えるようになって、本当にうれしかった。というか、それまで思いっきり笑えていなかったことに、その時初めて気がついた。かみ合わせが良くなったので、硬いものもバリバリ食べられるようになったし、本当に良い自己投資だったと思う。

お金は120万円一括で振り込みが必要だった。当時の私には貯金などなかったので、父に借金を申し出た。私の父は愛すべき変人で、玄米菜食を好み、東洋医学や精神世界への強い興味を持つ一方で、西洋医学へは強い憎しみを抱いていた。小学生だった兄の歯並びを矯正した時も、歯を抜くか抜かないかで歯医者と喧嘩をして、過剰歯以外は1本も抜かせなかったことを自慢にしていた。だから私が歯列矯正のために借金を申し出たときも渋い顔をされたけど、抜かない主義の歯医者だからと説明したら、ようやくお金を貸してくれた。

その120万円を、私は派遣で働きながら毎月3万円ずつコツコツ返していった。あの節約の日々はきつかったなあ。そしてちょうど100万円目となるお金を返しに行ったとき、父は胃がんで亡くなった。おそらく自分の病気に気づいていたであろうに、かたくなに医者にかかることを拒み続け、ようやく病院に連れていったら手遅れで、その翌日、いかなる延命措置も拒否して旅立った。父らしい最期だった。父の枕元で最後に「借りていた100万円は返したよ。20万円はまけておいてね」と言ったら、「そうか。100万円返したか、よくやった」と言って、満足気にうなずいていた。

父は今でいうフリーランスで、ビルの電気管理の仕事をしていた。いつも汚れた作業着を着ていて、口を開けば極端なことばかり。人が嫌な顔をするのも気にせず、むしろそれを楽しんでいるようなところがあった。10人の人がいれば9人には嫌われていたけど、残りの1人が10人分好いてくれたな。我が父ながら不思議な人だった。

 

写真は銀座四丁目から見上げた、今日の空。
そういえば銀座は父の仕事エリアだった。華やかな銀座の街で、わざと汚い作業着を着て歩くのを面白がっていた父。当時は恥ずかしかったけど、こうして思い出してみると、なかなかあっぱれな人生だったかも。あっぱれは「天晴」と書く。

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面会あれこれ

今日は伯母の通院に付き添うために、久しぶりに朝から外出をした。朝8時台の中央線上り電車に乗るのは、コロナが流行して以来初めてのこと。通勤ラッシュが戻ってきているという噂も聞いていたので、多少身構えていたんだけど…駅のホームも電車の中も、あれっ? というくらい空いていた。一瞬、今日が休日かと思ったぐらい。時差通勤とリモートワークの効果なんだろうな。と思うと同時に、今日の朝刊の見出し「外食チェーン大量閉店」が頭をよぎる。

 さて、伯母が転倒してから4週間。レントゲンを撮ってみたら、骨に入ったひびが修復されつつあった。年齢の割に回復が早いそうで、よかった。立つのはまだダメだけど、車イスには乗ってもいいそうで、伯母も喜んでいた。

脚の方は順調に回復していて安心したんだけど、1カ月個室で寝てばかりいたためか、認知機能が衰えてしまって、それがすごく心配。自分がどこにいるのか、今が何日で何時なのか、わからなくなっちゃうみたいで。施設の人も認知機能の衰えを心配していて、なるべくこまめに部屋をのぞいて声をかけたり、同じ施設内の人とおしゃべりできるように取り計らってくれているとのこと。今月から面会も少しだけ解禁されたので、私もなるべく会いに行こうと思っている。

面会が解禁されたのはよかったんだけど、入館時のうがい・手洗い、検温、マスクに加えて、新たにフェイスシールドの装着も義務付けられていて、まあ、暑苦しいことこの上ない。マスクしてればフェイスシールドはいらないと私は思うんだけど…。なんか段々エスカレートしてきてない? 伯母のいる施設は大きな企業グループが母体になっていて、そういう取り決めは現場の判断というよりも、本部の指示なのだろうと想像する。でもねえ、マスクの上にフェイスシールド…どんな合理的な理由があるのだろうかと、疑問に思ってしまう。

「ここにいると、なんか疲れるのよね」と、私が帰り際、伯母がポロッともらした。施設だから、起床と就寝時刻、食事の時間、お風呂の回数などぜんぶ決まっているもんね。長年気ままな一人暮らしだった伯母さんには、集団生活はちょっとつらいだろうなあ。とっても丁寧にケアしてもらっているのはありがたいけど、それも気疲れの元なんだろうな。

「ラジオでロシア語の勉強は続けてる?」と私が聞くと、顔を輝かせて「もう本当に、私はロシア語に生かしてもらっているようなものよ」と熱を込めて言葉を絞り出していた。つらいときこそ、好きなことがあるのは本当に大事。趣味のロシア語や図書館の仕事を通じて友人の多かった伯母のこと、せめて前のように家族以外も気軽に面会できるようになればと願う。

 

帰り道のプチぜいたく、台湾風かき氷。生き返る~!

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ジューッ! という香ばしい音を立てて、今日も夕陽が地平に沈む。

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『風の谷のナウシカ』を読んだ

ここ数日かけて『風の谷のナウシカ』の原作漫画を読んでいて、今日ようやく読み終えた。なんか知恵熱が出そう。疲れた…。

本は先月やったオンライン飲み会をきっかけに友達が貸してくれて、横浜→東京→京都を経て、私のところにやってきた。そもそも、なんでナウシカの話になったんだっけ。たぶん、このコロナ禍がナウシカの世界を連想させるから、流れでそういう話になったんだと思う。

今、ものすごくボーっとしているので、あんまりちゃんとしたことが書けない。なんでかというと、それは描かれている世界がものすごく大きくて、かつ複雑に絡み合っているから。物語が勧善懲悪のようなわかりやすい世界観ではなくて、善悪以前のカオスにどんどん分け入っていくので、読んでいてものすごく脳が疲れる。おまけに絵のタッチがすごい緻密で、一コマの密度が濃いから、絵が発するエネルギーにあたった感じ。

原作の漫画は20代の頃にも読んだことがあったけど、数十年後の今こうして読み返すと、当時はよくわからなかったことも理解できるようになっていた。ナウシカの世界が2020年の今の時代にリアリティを持ってきたことも大きいのかもしれない。アニメ映画では人間と自然の共生が中心的なテーマだったけど、漫画ではさらに人間が連綿と続けてきた憎しみの連鎖をいかに断つかということが描かれていて、そこも今の時代とシンクロしていると思った。というか、自然破壊と戦争は陸続きということか。

 

映画が封切られたのは私が中学生だった時で、たしか春休みに友達に誘われて渋谷の映画館に観に行った。当時もすごい評判だったので、映画館がとても混んでいた記憶がある。上映後、中学生だった私はすっかり感動して「すごいね、よかったね!」ばかりを連発していたな。あと思い出に残っているのが、その日、友達がセーラーカラーのブラウスを着てきていたこと。当時一瞬だけものすごく流行って、あっという間にすたれてしまったけど、彼女のお出かけ用の服がすごーくうらやましかったのを覚えている。だからナウシカというと、そのセーラーカラーのブラウスと、ミス・ナウシカガールだった安田成美を思い出す。

映画はその後何度も繰り返し見た。この前、テレビで放映されていたのを見ていたら、登場人物たちのセリフが、話される一瞬前にふっと分かって、しかもそれがことごとく当たっているので、我ながらびっくりした。ああ、10代の記憶の無駄遣い…。その頃に英会話などしっかりやっておけば、今頃ペラペラだったかも。でも私のことだから、間違いなくさぼって、結局漫画ばっかり読んでいただろうな。

 

ナウシカを読み終わり、空を見たら、夕陽の彼方にひと筋の可憐な飛行機雲。なんというタイミング!

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ぬか漬けとミクロな世界

日曜日、いい天気。今日は2週間に1回定期購入している自然栽培の野菜が届く日だった。ということは、あの3本の大根事件から2週間たったということ。1本は友達がもらってくれて、残りの2本の大根は着々と私の胃袋におさまった。そして今日届いたセットの中に、また大根が1本。今回は葉つきだったので、ちょっとうれしい。ほかにソラマメとキュウリも入っていた。ああ、夏が来るんだなあ、と実感。

キュウリを食べるなら、何と言ってもぬか漬けがベスト。私がぬか漬けを始めてから、今年で3年目くらいになったかな。一度おじゃんにしてしまい、今のぬか床は2代目になる。時々かきまぜるのを忘れてしまうけど、今のところおいしい漬け物を作ってくれている。ありがたや。

ぬか漬けをするようになってから、予想通り、おなかの調子が良くなったと。驚いたのが、真冬にぬか床をかきまぜたときのこと。気温は低いのに、ぬか床の中がポカポカとあたたかかった。ああ、生きてるんだなあ! と思って感動した。夏の間は冷蔵庫に入れる人も多いみたいだけど、私は今のところ入れずにがんばっている。真夏の方がぬか床がにおわないのね。うちだけかもしれないけど。

何カ月か前に『いただきます ここは、発酵の楽園』というドキュメンタリー映画を見て、ちょっと世界観が変わった。肉眼では見えない存在だから、普段はあまり意識しないけど、私たちは菌に守られて生きているんだなあと、菌がいとおしく思えた。
映画の公式サイトはこちら。
https://itadakimasu2.jp/

映画の中で特に私の興味をひいたのが、木村秋則さんの「奇跡のリンゴ」の話。木村さんのリンゴは時間がたっても腐らないというのはよく知られている話だけど、木村さんを研究している学者さんが映画の中で、腐らない理由が「菌」にあることを解明していた。木村さんのことはスピリチュアルな文脈で語られることが多いけど、それを奇跡で終わらせずに、科学の目で分析している人がいるのは本当に素晴らしいことだと思う。

奇跡のリンゴが生まれるきっかけになった木村さんの奥様と同じように、私もケミカルなものに弱い体質で、病院で処方された抗生物質を飲むと、かなりの確率で湿疹が出てしまう。抗生物質は良い菌も悪い菌も区別せずに殺してしまうというから、湿疹ができたり調子崩したりするのはそのせいなんじゃないかと思っているけど、どうなんだろう。殺菌作用をうたったハンドソープを使うと肌がヒリヒリするのも、皮膚の菌を殺しすぎているからではないかと思う。

菌とウイルスは別物だけど、コロナ対策で言えば、手洗いはふきん洗い用のシンプルなせっけんで十分だと思っている。私は生物学者福岡伸一博士の大ファンで、時々開かれる講義に参加している。コロナが流行り始めた2月末の講義では、コロナウイルスの構造をとても分かりやすく説明してくださった。

博士によると、コロナウイルスは、油でできた膜の中に1本のRNAが入っているという構造で、膜が壊れてしまえば、ウイルスは人間の細胞にくっつくことができなくなって、増殖できなくなる。博士は「要は油だから、せっけんとかアルコールが効くんですよ」と言っていた。

この説明を聞いて、私はすごく安心した。ウイルスそのものが猛毒なわけではないし、せっけんで洗えば壊れちゃうんだね、と。

ウイルスは目に見えないから怖い、というのは人のごく自然な感情だと思う。でも、肉眼で見えないミクロな世界でも、こんなふうにかみくだいて、やさしい言葉で説明してもらえたら、もう怖くなくなる。テレビなどでも、こういう番組が放送されればいいのにと思う。

あら、話がぬか漬けからずいぶん遠くへ来てしまった。今日はここまで。

 

いつも夕空なので、たまには午前中の空も。澄んだ空気が気持ちよかった。めざせ、早起き!

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ゆるやかなつながり

今日はJATSの年次総会に参加した。JATSとはアレクサンダーテクニークの教師資格を持つ人たちの団体のことで、一応私も名を連ねている。初のZoom開催だったけど、オンラインってやっぱり便利。移動のための費用も時間もかからないし、自宅にいながら気軽に参加できる。画面共有すると、資料も手元で読めるから、ホワイトボードよりも便利。会議の目的が報告や連絡などの場合、オンラインの方がメリットが多いかもしれないと思った。

フリーランスの私は毎日通う職場があるわけでもないので、こうした会があると、懐かしい仲間達にもあえて、刺激をもらえるのでうれしい。ゆるやかなつながりをに触れて、私もがんばろうと思った。

今年に入ってワードプレスで作り始めた自分のウェブサイトを、そろそろちゃんと形にしなくちゃな。この2カ月、いくらでも時間があったはずなのに、何となく出鼻をくじかれてしまった感じがあって、作りかけのまま放置していた。今月中には公開できる形にしてみよう。…と、公約的なことを書いてみた。

 

夕方、会議が終わった後、気分転換にアイスを買いに外に出た。ここ最近、通りを歩くとマスクをしていない人を見かける率が高くなった。最近厚労省から出された熱中症対策の通達に、屋外で2メートル程度距離がとれる場合はマスクを外してよいと書いてあったことが影響しているのではないかと思う。私は元々、屋外でまわりに人が少ないときはマスクはいらないと思っていたので、その通達に我が意を得たりという感じ。でも、そうは思わない人もたくさんいるということは理解しておきたい。

私は自分が「マスクを外す派」であることにより、「マスクを外さない派」のことを批判的に見る心理が働いていることに気がついて、ハッとした。それは一種の「逆自粛ポリス」なんじゃなかろうか。

自分が正しいと思うことをしない人を見て、その人に批判を投げる。目の前の相手も自分の正しさにそぐわないと思い、批判を投げる。お互いがそうしている限り、そのラリーは終わらない。私の心の中のマスク批判は比較的小さなことだけど、それが小さなうちに気がついておきたいと思う。

 

写真は昨日の深夜に見たストロベリームーン。南の空のビルのすき間から、力強い光を放つ。

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腕と体軸

やっぱり来ました、筋肉痛…。何のことかと言うと、昨日のジャイロトニックの話。腕を動かすトレーニングがいつもより無理なくできたから、今回は筋肉痛にならないと思ったんだけど、朝起きたらやっぱり筋肉痛だった。でも、いつもより痛みが軽いし、そんなに嫌な感じでもない。だから、これはこれで進歩なのだと思う。

とはいえやっぱり気になるので、今日は一日中、腕のことを考え続けていた。…なんて書くと変人ぽく思われるかもしれないけど、これが私の生業だから、何時間考えていても、ちっとも飽きることがない。

昨日の記事では、お皿を拭くときに胴体から離しすぎていた腕を、肘を曲げることで近くに寄せてみたら楽だったと書いた。では、どうして自分はお皿を持った腕を胴体から必要以上に離していたのか、その理由が気になっていた。

思うに、それはお皿を拭く前から始まっていて、目の前にあるお皿に腕を伸ばすときに、上体が後ろに反り気味になっていたから。なぜ上体を反り気味にしていたかというと、膝をピンと伸ばすようにして立つとそうなるから。上体が後ろに反り気味の姿勢では、バランスを取るために腕を前に伸ばす必要があって、だからお皿を持った腕を胴体から離していたのでは。

そこで、これを逆回しにしてみる。膝を少しゆるめると、足首・膝・股関節の3つの関節に適度なゆとりができて、脚でバランスがとりやすくなる。股関節が自由になると、その上に乗っかっている骨盤と脊椎と頭が脚の上でバランスをとりやすくなる。上体が脚の上でいいバランスにあると、腕を前に出しすぎる必要もなくなって、腕と胴体はちょうどいい距離感で作業ができる。

ふう。分析は疲れるね。。。

この前、球技が苦手だったと書いたけど、球技は本当に腕と体軸をいかに連動させて使えるかが大事だと思う。私は前に勤めていた会社の仕事で、よく中学や高校に行く機会があった。ある時、体育の授業でバスケットボールをしているところに居合わせて、少し見学させてもらったことがある。その時私に見て取れたのは、多くの子たちの動きが「腕だけ」になっていて、体軸が置き去りになっていたということ。超運動オンチだった私が言えた立場ではないんだけど…。一生懸命になればなるほど、手が先に出てしまうんだよねと思いながら、しばらく見ていた。それではプロはどんなプレーをするんだろうと思って、今日はYouTubeNBAの選手の動画を見ていたら、あまりの美しさに感動した。

アレクサンダーのレッスンで、よく「腕は最後」ということを言われる。「まず体の軸を整えて、それから腕を使う」というような意味で言われるんだけど、NBAの選手たちの動きはまさにそれだった。シュートするときの体の動きはまさにスプリングそのもの。膝を柔らかく使ってジャンプ、全身を使ったバネの張力でボールを飛ばしていて、腕は仕上げに添えているという感じ。ドリブルしながら方向転換するときも、カラダの軸を使って回転するから、動きが速い。

しばらくNBAのプレーを眺めていたら、私のミラーニューロンが働いたみたいで、そのイメージを使って築50年の我が家の重たい窓を開けたら、腕の力にまかせることなく体軸を使って楽にできた。マイケル・ジョーダン降臨か! …なんて、神様を窓の開け閉めに使うのはもったいないね。それはともあれ、バスケに限らず、プロのスポーツ選手の動きを見てイメージをつかむのは、なかなか良い研究材料になりそう。

 

今日の夕暮れ。日暮れ前のほんの数分、燃えるような色合いに。

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今日のレッスンメモ:家事をするときの体の使い方

今日はゆりこさんのレッスンを受けた。今日の私のテーマはズバリ、家事。アレクサンダーテクニークで家事の悩みを解決するというもの。ノートパソコンをキッチンに持ち込んで、Zoomにゆりこさんが入ってくるのを待ち構える私であった。

この頃、キッチンで何かしようと腕に力を入れるたびに、胸のあたりが詰まるような感覚があって、ずっと気になっていた。2週間ほど前にもお皿を拭くというアクティビティをしたんだけど、その日はわりとうまくいっても、次の日には元に戻っていたり…。そこで、せっかくオンラインレッスンなのだから、リアルな環境で動きを見てもらおうと思った次第。

さっそくお皿を拭いているところを見てもらった。私は手を伸ばしてお皿を取りに行くときに、首から上だけ突き出して、お皿の方に寄って行ってしまうみたいだった。そこで、こんなふうに思ってみる。
「まずカラダの中心軸を思うこと。自分の中心軸から腕が外側に向かって伸びていって、手がお皿に向かっていく。お皿を手に持ったら、お皿を自分のほうに近寄せる」。

そして衝撃だったのが、このアドバイス
「お皿を拭くときに、もっとカラダの近くでやってみては?」
言われたとおりにお皿を少し近寄せてみたら、あら! やだ、楽? えっ、なに、そういうこと!? 今まで悩んでたのは何だったの? …みたいな「アレクサンダーあるある」の展開に。

重たいものを持つときを想像してもらえると分かりやすいんだけど、胴体から遠いところで持つよりも、近寄せて持つ方が軽く感じるわけで、お皿を拭くときにも適切な距離というのがある。私は長年、胴体から少し遠いところでお皿を拭いていたらしい。ほんの10㎝程度のわずかな違いなんだけど、肘を曲げてお皿をカラダに引き寄せると、少ない力でぐんぐん拭けた。少し腕に力を入れても、気になっていた胸の詰まりを感じなかった。

ガスコンロからヤカンを持ち上げる、というのも見てもらった。腕の伸ばし方や持ち手の握り方などもアドバイスしてもらったけど、一番影響が大きかったのは立ち方だった。立ち方が安定すると、ヤカンの重さがきちんと足を通って地面に下りてくる。腕にも胸にも腰にも負担がかからない。

ほかにもモップで床を拭く動きも見てもらった。これも体軸を意識することで、モップから床へと力がまっすぐ伝わって、少ない力で床がきれいになるのだった。

今回のレッスンは自分の学びの集大成のような気がした。思えばこれまで腕の使い方をいろんな形で探究してきて、最近も「型」のような練習をしたばかり。そうした探究の積み重ねが、今回はリアルな生活の場でひとつに統合されたような感動があった。

それにしても、生活空間というのは本当に習慣と結びついているものね。毎日を過ごす空間の広さや物の配置こそが、動きの習慣を作ってきたんだな(もちろん物だけじゃなくて人との関係もね)。毎日使うキッチンで、自分の長年の習慣に気づいたときの衝撃は本当に大きかった。あかすりで、大きな垢がぼろぼろ取れたみたいな気分だった(汚い例えですみませぬ…)。ああ、面白かった! びっくりした!

 

今日の夜は、約2カ月ぶりにジャイロトニックのグループレッスンに出かけて行った。運動不足でカチコチになっていたカラダがほどよく伸ばされて、終わった後は気分もスッキリ。私は腕を大きく動かすトレーニングが苦手で、いつも上腕が筋肉痛になってしまっていたのだけど、今日は腕がとても楽に動かせたうえ、筋肉痛になる気配がまるでない。なぜかというと、今日は腕を動かしながら、同時に脚も使えていたから。今までは下半身を忘れて腕だけで頑張っていたから、ある部分に過剰に負荷がかかって筋肉痛になっていたんだということが分かった。昼間アレクサンダーのレッスンを受けたから、カラダが覚えていたんだと思う。学びの多い一日だった。

 

写真は代々木公園の近くで見上げた今日の夕空。空を飛ぶ鳥のような雲を発見。手塚治虫火の鳥っぽい。

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