ぼちぼちダイアリー

とにかくなんか書いてみよう!

『アラビアのロレンス』

有名だけどまだ見たことがない名画シリーズ、第2弾として『アラビアのロレンス』を鑑賞した。前回の『ドクトル・ジバゴ』主演のオマー・シャリフつながりで選んでみたのだった。映画の公開は1962年、TSUTAYAで完全版を借りてきたらディスクが2枚組で、なんと227分(ほとんど4時間)の超大作だった。

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アラビアのロレンスについては、名前だけは知っていた。高校の世界史の教科書に1行だけ書かれていて、映画の主人公は実在の人物なんだなと思った記憶がある。あらためてwikiで調べると、第1次世界大戦の時代、オスマントルコ帝国からアラブ独立闘争を率いた人物とある。なんとなく美男でカッコいいヒーローというイメージだけが漠然とあった。

映画のロレンスは確かに美男だった。知的で風変わりで、軍では少し浮いた存在。イギリス人将校でありながらアラブ人の独立を指揮し、人に対する優しさと勇敢さを併せ持つ男の中の男だった。と同時に、規律に背いた仲間を処刑したり、復讐心から逃げ惑うトルコ人を虐殺したり、アラブに対する愛と憎しみの間で葛藤する。正直なところ、私はロレンスをカッコいいとは思えなかった。人を殺すシーンで笑う顔を見せたり、殺戮の場面では恐怖に顔がゆがませる。醜さや弱さも見せることを通して、映画はロレンスをヒーローとしてではなく、自身の立場や内面の葛藤に苦しむ人物として描いていたように思う。

戦争映画というものを久しぶりに見た気がする。見事に男しか出てこなかった。100年前、世界中でこんなふうに人と人が殺し合っていたのかと思うとぞっとする。そのころの世界は、ヨーロッパの列強が他国を植民地にして支配していた時代だった。ロレンスがアラブ人のために苦労して手に入れたアラビア半島も、結局はイギリス・フランス間の協定によって分割されてしまう。支配が正義とされていた時代だった。

と過去形で書いたけど、今もあるよね、正義の名のもとに行われる支配。紛争の話だけではなくて、このささやかな日常の中にもそれはある。戦争映画を見て「憎しみは何も生まない」と言うことはできても、わが身を振り返ると、憎しみを手放すというのはひどく難しい。

ドクトル・ジバゴ』を見た時も思ったけど、革命で虐げられていた側が権力を手にした途端に、ものすごい復讐が始まるのね。それまでブルジョアだった人たちの財産をすべて取り上げ、殺したりする。詩を書いているというだけで命を狙われるなんて、もう狂気の沙汰。でも、それが正義の名のもとに行われた。こわい…。

毎日目にするSNSでも政権批判の投稿がたくさん流れてくるけど、実はちょっと同じ怖さを感じる時がある。批判自体はもちろんあってしかるべきと思うけど、批判すべきは制度や出来事であって、人格ではないと思うのよ。

 

長編映画を見終わって見上げた夕方の空。21世紀の東京の空は小雨混じり。

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なんでもない平和な1日

3本の大根について書いた昨日の記事を読んで、近所に住む友達が1本欲しいと申し出てくれて、色白の子が1本もらわれて行きました。まるで生まれたての子猫を里子に出した気分です。(ウソ)

大根を届けたついでに、近くの神社に行っておしゃべりをした。時は五月、新緑の木陰と参道を通り抜ける風が心地よく、よもやま話に花が咲く。境内では、私たちの他にも若い男の子たちがペットボトルを手にしゃべっていたり、親子連れが遊んだりしていた。やっぱり人がいる風景っていいものね。街のスピード感はこのくらいが丁度いい。

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その後、友達と一緒にスーパーで買い物をして、それからジェラート屋さんに立ち寄った。軒先で2人並んでジェラートを食べていると、背広を着たおじさんがお店に入ってテイクアウトをしていた。日暮れ前、ジェラートの入った箱を持って家に帰るおじさんの後ろ姿を眺めながら、2人で「なんかいいね」とうなずき合った。平和な1日だった。

夕方、家に帰ってテレビをつけたら、安倍総理大臣が緊急事態解除の記者会見をしていた。大事な話のはずなのに聞きながらウトウトと居眠りをしてしまい、ハッと目覚めたら記者会見は終わっていた。

ともあれ緊急事態はひとまずこれで終了だ。でも、なんだか実感がわかないのだった。私は1年ほど前から会社勤めをしていないし、元々家にいるのが好きなタイプなので、緊急事態宣言が出されても、あまり生活が変わらなかった。だから緊急事態が解除された明日以降も、私の生活は変わらないだろう。

本当に大変なのは、これからのような気がしている。何が起きるのか、はっきりしたことはわからないけど。

だから、今日はこの平和な1日を書き残しておきたい。2020年5月25日月曜日の、なんでもない平和な1日。大根をおすそわけしたり、神社の境内でおしゃべりしたり、スーパーで買い物したり、友達と並んでジェラートを食べたりしたことを。

このところ、ちょっと頭を使いすぎたので、今日はこんな感じで。

 

日没後の今日の夕空。青、白、グレー、オレンジのしまもよう。それから、まだ名前のない色たちが一緒に躍る。

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ベジタブル!

今日はいい天気の日曜日。やっぱり晴れると気分がいいね。

今日は2週間に1回宅配してもらっている自然栽培の野菜セットが届く日だった。セット内容は先方におまかせなんだけど、今日は開けてびっくり玉手箱だった! 

さあ、これを見て何か気づくことはありますか?

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だ、だいこんが、3本、ですか…。

これまでも大根2本というのはあったけど…3本とは最高記録更新です。しかも前回の大根がまだちょっと残っているんだよね。ちょうど昨日と一昨日は連続でぶり大根を食べたばかりなんですけど…。今日からしばらく大根祭りです。これを機に、もっと大根料理のレパートリーを増やしてみよう。いっそ切り干し大根でも自作してみようかな。

と書いて、切り干し大根は案外いい思いつきかもしれないと思う。乾物。新型コロナが流行り始めてスーパーの棚から食料品が消えた時、私はそんなに買いだめはしなかったけど、いざというときのために、乾物だけは多めに買っておいた。野菜は宅配で届くから心配ないとして、たんぱく源に豆とか高野豆腐があれば、まあ何とかなるだろうと思ってのことだった。

インスタントとかレトルト食品はやっぱり添加物が心配だから、なるべく食べないようにしていて。その点、乾物なら添加物の心配はいらないし。実際、乾物ってすごい便利。日持ちがするうえに、水で戻すとカサが増す。ものによっては生で食べるよりも栄養価が高いものもある。それに缶詰のようにゴミがでない。先人の知恵って素晴らしい。

ところで、切り干し大根ってどうやって作るんだろう。刻むの大変そう。ざるとかいるのかな。干す場所を作らなきゃ。

 

さて、明日には首都圏でも緊急事態宣言が解除される見込みで、いよいよ元の生活に戻れると思うと素直にうれしい。でも、正直なところ、これまでのような大量生産・大量消費の世界には、もう戻りたくないと思っている。

緊急事態宣言の解除後について、テレビなどを見ていると、感染を防ぐための新たな取り組みとか、飲食店や観光地に客足が戻るかなどの話題が多くて、もちろんそれも切実な問題だけど、これから世界中の生産活動とか産業構造がどこを目指すのか、企業のリーダーたちがどんな考えを持っているのかなど、そういうことも知りたいと思う。

昨日の気候変動のお話し会でもちょっと話題に出たけど、東日本大震災の時にあれだけ節電が言われたのに、いつの間にか忘れられて、世の中が元に戻ってしまった。今回のことで、喉元過ぎて忘れないようにしたいのは何だろう。私個人について言えば「小さくても声をあげていく」だったように思う。

 

写真はコンビニに行った帰りに自宅マンション前で見上げた青空。道端で空の写真に撮ろうとすると、電線が入らない場所が本当に少ないのだった。

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気候変動のお話し会を開催しました

今日はZoomで気候変動のお話し会を開催した。私はずっと環境問題に興味があって、自分にできることはコツコツと続けてきたつもり。そんな中、昨年末に都内で開かれた気候変動のお話し会に参加してみたのだった。

そこでは、豊富なスライドを使って、異常気象がもたらしている世界中の悲惨な現象を見せてもらった。洪水、ハリケーン、山火事、干ばつなどの写真が、次から次へと流れていく。

私がよく目にする異常気象のニュースは先進国のものが多いけれど、洪水、干ばつ、山火事は世界のあちこちで起きている。最高気温が40度、50度なんて、もう想像もつかない。それは遠い国の出来事ではなく、自分の住んでいるこの地球のことなのだ。

今は地球が手遅れになる一歩手前なのだという。臨界点ギリギリのところ。ここを超えると、もう温暖化は止められない。何かしたい。自分一人で出来そうなことは、もう大体やってきた。だから次は一人ではできないことをするタイミングなんだ。そんな思いで、今回お話し会をオーガナイズしたのだった。

後半のシェアリングもとても貴重な時間で、終了の予定時間を30分もオーバーしてしまったけど、まだまだ話せそうだった。シェアリングでは自分が漠然と抱えていた思いを言葉にしてもらったり、新しい発想や情報などを得ることができた。そうなんだ、私はずっと長い間、誰かとこうした問題について話したかったのだ! と気がついた。

では、なぜしてこなかったのだろうか? 

こうした大きな問題は語りづらいものがある。なんとなく、日常生活ではあたりさわりのない話をすることが良しとされていて、思想信条にかかわるようなことを話すと人間関係がギクシャクする…。そんな風に思っていた。

思い出すのは、大学を出て就職したばかりの頃のこと。超・空気が読めない新人だった私は、会社で同じ課の一回り年上の先輩に「この間の選挙に行きましたか? えっ、いかなかったんですか? だめですよ、選挙行かなきゃ。なんで行かないんですか?」みたいなことを言って、すごい嫌な顔をされたことがある。その後、男性上司にフロアの隅に「ちょっとちょっと」みたいな感じで手招きされて、穏やかな声で、こんなふうに諭された。「あのね、社会人のマナーとして、会社では避けるべき話題が3つあるの。それはね、政治と、宗教と、プロ野球

その上司の教えは、会社員として組織を円滑に運営するための知恵なのだろうと思う。私なりに納得したので、会社員生活をする上で、ずっとその教えを守ってきた。それに、選挙に行かない人がいたとしても、そんなふうな言い方は良くないことが、今は分かる。

でも…最初は「思いやり」や「マナー」だったものが、私の中でいつしか過剰な自主規制になって、自分の考えは言わないほうが無難という姿勢になってきた気がする。それに、あの教えは本当の意味で正しかったのだろうか? と、この頃よく思う。思ったことを言わないことと、組織を円滑に保つことは、本当に両立できないのだろうか? そんなの日本特有のことなんじゃない? それに昔はそうだったかもしれないけど、今はもうそういう時代じゃないんじゃない?

地球環境とか世界平和のような大きな問題について、個人ができることは本当に限られていて、すごく無力感を覚えることもある。そういう発言は、発信力とかリーダーシップのある、特別な人がやることだと思っていた節もある。でも…というか、いや、だからこそ、自分のような目立たない人間が声を上げることが、今はとても大切だと思う。平凡な私がオーガナイズする姿を見て、身近な人に「あのくらいなら自分もできそう」「自分もやっていいんだ」と思ってもらえたら、それはすごくいいことだから。

今日は他にもいろんなことを考えたけど、思いついたときにまた書きます。

 

今日は久しぶりの青空。今日は南の空を撮ってみた。シュークリームみたいな雲がポカンポカンと浮いていた。

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母と娘のブルース

おとといの記事で、母の料理がやばかったという話を書いたら、「気になる~」というコメントをいただいた。そうか、気になりますか、ふっふっふ…。

なぜか笑いが出てきてしまう。母のやばかった話は、私にとっては「黒歴史」で、当時は「お母さんがまともじゃないコンプレックス」に真剣に悩んでいたものだけど、当人が亡くなった今、こうして振り返ってみると、悲劇と思っていたものは案外喜劇だったりするんだなーと。いや、ブログに書けている時点で、もう私の中で喜劇になっているわけなんだけど。

私は10代後半の反抗期から、母とまともに口を利かなくなった。たぶん20年くらいは冷戦状態が続いていた。10代の頃は、もっとちゃんと面倒をみてほしかったという怒り、大人になってからは、あれだけ放っておいたくせに今更干渉してくるな、という怒りがあったと思う。

母は小学校の教師をしていたんだけど、信じられないくらい仕事が遅くて、学期末になると、帰宅が毎日夜中近くになるのだった。誰もいなくなった職員室で、一人で仕事をしていたのだろう。さらに家に仕事を持ち帰ってテストの採点などをしていた。ウトウトと舟をこぎながら仕事をするので、通信簿にミミズを書くことも多かった。

母は料理はまずいし、掃除も下手だし、貧乏性でモノを捨てないから家はマジでゴミ屋敷だった。友達の家に遊びに行くと、ちゃんと家にお母さんがいて、いつ行っても部屋がきれいに片付いている。それが普通だと思っていた私はコンプレックスの塊だった。お母さんが働いているせいでうちはまともじゃない。私は人並みの暮らしがしたいと、ずっと願っていた。

それが変わったのは、自分が働き始めてから。働きながら子供を育てることがどんなに大変なのかを知ったことが理由のひとつ。あともうひとつは、発達障害の本を読んだこと。それは自分のために読んだ本だったけど、「うちのお母さん、これだ!」と確信をしたのだった。

母のダメなところを発達障害の特徴と結び付けて考えると、いろいろと合点がいった。料理も掃除も悲惨なくらいできないのは、本人の努力が足りないのではなく、何かの理由で、能力が偏っているだけなのだ。例えば、近眼の人に遠くのものがハッキリ見えないからと言って怒るのはナンセンス。必要なのはメガネであって、怒りを向けることではない。この人にはサポートが必要なんだ。今まで苦手なことを頑張ってやろうとしていて、さぞかし大変だったろうな…。そう思えたとき、ようやく母を理解することができたのだった。

あれ? 今日は母のやばいところを面白おかしく書こうと思っていたのに、なんかこういう話になっちゃった。でも、この話、たぶん続きます。今日はこのへんで!

 

今日の昼間の空。地平のところだけ明るくて、遠くの建物が切り絵のように浮かび上がっている。

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小さな喜び3つ

今日は入院していた伯母が退院する日だった。早朝から3回も電話をかけてきて、そのたびに「今、〇〇病院ってとこにいるんだけどね…」と言う。それは知ってるよーと心の中でツッコミをいれつつ、不安に襲われた。自分がなぜここにいるのか分からなくなってしまっていたみたいだった。ああ、いよいよ認知機能が低下してきたのかな…。

でも施設に帰って馴染みのスタッフさんたちの顔を見たら、目に輝きが戻ってきて、元の様子に戻ったので安心した。居室に戻ると、テーブルの上に手紙が置いてあった。隣の部屋の人が心配して書いてくれたものらしく、嬉しそうに読んでいた。別のおばあちゃんも訪ねてきてくれて、「おー!」と言いながら二人でハイタッチを交わしていた。いつの間にかハイカラな挨拶を覚えてる!と驚く。コロナのせいであきらめていた訪問リハビリも、特例として受けられるように取り計らってもらえた。よかった、本当によかった。

 

施設からの帰り道、自然食品店に立ち寄った。ふと見ると箱いっぱいの大根葉が無造作に置いてあって、その横に「お土産にお持ち帰りください」との文字が。うおー、宝の山発見! 大根葉は地味に好物。いくらでも食べられる。袋いっぱいに詰めこんで、ほくほくしながら家路についた。(もちろん他の買い物もしたよ)

家に帰って、大根葉を調理した。細かく刻んで、じゃこと一緒に油で炒めて、お酒と醤油とかつお節で適当に味をつける。最後に白ごまをまぜたらできあがり。これ、ごはんにかけたら無敵のおいしさ。ザッツ地味メシ! どうして世の中の大根は葉が切り落とされて売っているのか不思議でならない。こんなにおいしいのに、捨てるなんてもったいない。

 

夕食の後はゆりこさんのオンライン・レッスン。今日はHands on the back of the chairを練習してみた。これはアレクサンダーテクニークの伝統的な訓練法のひとつで、「型」のようなもの。イスの背に手を置くという決まった動作を通して、腕の使い方を探究する。腕が自由に使えるためには下半身が安定していなくてはいけなくて、腕の探究をしていたはずが、いつのまにか脚の探究になっていく。

イスの背ではなくリアルな動作で腕の動きを探究をしてみたくて、後半はお皿をふきんで拭くという動きをやってみた。自宅でのオンライン・レッスンのいいところは、日常生活での応用をすぐに試せるところ。お皿を拭くときでも、下半身が安定していて、その上に上半身がバランスよく乗っていることが大事。言葉で書くと簡単なんだけど、なかなかできない。一度できても、それを自分にとっての「型」にした途端に、身体内部のいきいきした感じが消えてしまう。

でもレッスン後に本当にお皿を洗って拭いてみたら、いつもよりもいい感じでうれしかった。型は不思議。人を自由にもするし、不自由にもする。

 

雨降りの空、けぶる街並み。小さな喜びがひとつ、ふたつ、みっつ。
同じに見える灰色の風景も、毎日装いを変えている。

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料理の記憶

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今日も朝から曇り空。空が3日連続で灰色なので、色が欲しくなって、買い物に出たついでに花を買ってみた。オレンジ色は元気が出るね。

花を上手に撮りたくて、何枚も撮影してみた。写真は苦手なのに、雑誌の仕事してたときは物撮りも時々やっていた。自分の撮った素人写真が使われるなんておそろしーと思いながらやっていたな。花を生けるのもあんまり得意じゃなくて、平面や立体のセンスがある人にあこがれる。

料理も複雑な工程のものは作らない上に、きれいに盛り付けようという発想がないので、いつも「いよっ男前!」てな感じの仕上がりになる。料理はするけど、特別好きというわけでもない。朝起きて顔を洗うのと同じ、日常のひとつといった感じかな。

初めて料理をしたのは、小学1年生の時だった。夏休みで、家族で母の田舎に行っていた。お昼になってお腹がすいたんだけど、ちょうどそのとき大人がだれもいなくて、サッポロ一番の袋を持って3つ年上の兄に「ラーメン作って」と頼んだら、「作り方を教えてやるから自分で作れ」と言われて(ひどいよね)、私も「まあそういうもんか」と思って作ってみたのが初めてだった。その時の兄の指示がこれ。今でもはっきり覚えている。

「鍋のこの辺まで水を入れて火にかける。危ないから、火だけはオレがつけてやる。鍋が煮立ったら麺を入れて、それから100数えるんだ。数え終わったら火を止めて、スープの粉を入れたらできあがりだ」

「100数えろ」って、いかにも理系っぽい個性が出ていて笑える。私だったら「時計の針があそこまで来たら」って教えるな。さて、こうして出来上がったラーメンは水を入れすぎてしまい、スープの色が思っていたより薄くなってしまった。でもちょっと誇らしい気分で、ナミナミになったどんぶりをソロソロと運んだ。薄味のラーメンを食べながら、次はもう少し水を減らそうと思ったことを覚えている。

私の家は当時は少数派だった共働き家庭で、私は小学5年生の頃から家族の夕飯も自分で作っていた。といっても、大抵カレーかシチューだったけど。中学と高校のお弁当も自分で作った。私の母は家事がとても苦手な人で、特に料理はやばかった。いやもう、あれは伝説。母の手料理というと、苦笑いとともに、やばい思い出ばかりが浮かぶのだった(お母さん、ごめん!)。

そういえば去年、闘病中の母と大人げなく親子ゲンカをしたことがあった。介護で忙しかった私が「お腹すいたから、これからご飯を食べる」と言って簡単な料理を作り始めたら、それを見ていた母が「かっこつけてないで早く食べなさい」みたいなことを言って怒り始め、私もカーッとなって「私のどこがかっこつけてるわけ?」みたいな言い争いになったのだった。母は忙しい時は台所で立ったまま食事をかきこむという、戦国武将のようなことをしていた人だったので、私がおなかがすいているくせに料理を作ってお皿に盛って座って食べるというのが、まどろっこしく見えたのだと思う。戦争中に苦労して育って、モーレツに働いて高度経済成長期を支えながら子供4人育てた人だからなあ。私を「かっこつけてる」と怒ったのは、自分の子供を空腹から救いたいという愛からだったと思うけど…相当風変わりな母だった。

料理の話から、思い出ぽろぽろ。なつかしや。

 

今日の空も一面グレー。でもよく見ると、いろんな色が混じっていているよう。

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