ぼちぼちダイアリー

とにかくなんか書いてみよう!

私にとっての仕事とは

仕事って何だろうと、ずっと考えている。とても漠然とした問いだけれども。

昨日、20代の頃に勤めていた専門商社のことを書いた。私にはビジネスの素養がまったくなかったけど、それは素養という以前の問題だったのだろうと思う。私にはお金をもうけるという発想がない、というのかな。当時の社長にも説教されるときに「ボランティアやってんじゃないんだぞ」とよく言われていた。

今思い出してもモヤモヤするのが請求書を作っていたとき。「コミッション」という名目で結構な金額を請求するんだけど、会社として何の仕事をしたかというと、A社とB社の間に入って業務委託をしただけ。実質的な仕事は何もしていないのに、高額の手数料を請求できるということが私には不思議だった。同僚に聞いたら「そういうものだから」という答えが返ってきた。

ビジネスの世界ではそれは正当な「仕事」なんだろうけど、私にとっては「仕事」とは思えなかった。だからそれでお金を請求できるのが不思議だったし、理由がよくわからないからその業界のノウハウも身につかなかったんだろう。社長には「君には学校の先生みたいな仕事が向いているね」と皮肉っぽく言われたけど、まったくもってその通りだったと思う。人によって「仕事」と思えるものはそれぞれ。社長のようなビジネスマンにとっては、商売を通じて利益を上げることに価値と喜びがあるのだろう。

では私にとっての「仕事」ってなんだろう。…と最初の問いに戻る。私にとっての価値と喜び。それを考えるときに思い出すのは、1年前のこと。

去年の春、母の末期がんが分かった。残された時間を一緒に過ごしたかったから、勤めていた会社を辞めた。本能的な判断だった。その会社での仕事は私に向いてはいたけど、気持ちの上での行き詰まりを感じてもいたから、休職ではなく退職をした。本格的な介護生活が始まった後、引継ぎのために何回か出社した。久しぶりに出社して自分の席に座ったとき、そこにいる自分に強烈な違和を感じた。いま目の前に助けを必要としている人がいるのに、なんで私は現場を離れて、この仕事をしているんだろう、と。

たまたま自分の親が病気になったことで見える化したけど…自分が毎日会社の机に向かって1日の大半を費やしていたことは、私にとっての「仕事」ではなかったことに気がついてしまった。もちろん、会社の仕事には社会的な価値があった。でも、ここで言いたいのは、自分にとっての価値や喜びということ。私は目の前にいる人のケアをしたいんだとはっきり分かった瞬間だった。

家族の介護はお金にはならない。けれどそこには喜びがあり、癒しがあった。人をケアする仕事は今の社会ではお金にならない仕事で、それは改善されなくてはならない問題だけど、それと同時に根本的なところで、世の中の仕事の価値というものをみんなで今一度問い直してもいいのではないかと思う。業務委託をしただけなのに高額な手数料を請求できることに対して、あれから何十年考えても、私にはやっぱり「そういうものだから」とは思えないのだった。

 

しずくの向こう、雨降りの空を眺める。

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パワハラ

昨日のニュースで、アップリンクの代表がパワハラで元従業員に訴えられたことが報じられた。アップリンクは私が頻繁に通う映画館で、ニュースになる前日も行ってきたばかり。身近な名前に驚きはしたけど、パワハラは私にとってとても既視感のある光景で、それが自由や多様性を標榜してきたアップリンクの理念とかけ離れたものであることにもさほど驚きはなかった。ただ「ここもか…」と思った。そして、そんな風に思ってしまう自分がちょっと悲しくなった。

私は20代の頃、小さな専門商社に勤めていたことがある。友人が私のことを見込んで、自分が勤める会社に誘ってくれたのだった。喜んで転職したものの、その仕事は私にはまったく向いていなかった。恥ずかしい話だけど、文学部を卒業した私は、商売というものが仕入れ値と売値の差額で成り立っていることも知らなかった。いやそれ常識でしょ、と思われるかもしれないけど、仕事になるまでビジネス的なことに私はまるで接点がなかったから。今の時代だったら、会社側ももう少し慎重に見極めて採用するものだろうけど、私の若さに期待をかけてくれたのだろうし、時代も今より大らかだった。

私はビジネスの素養がないうえ数字に弱くて、請求書の金額などもよく間違えた。受け身な姿勢のうえに、言われたこともちゃんとできない。どんなに控えめに言っても、商社では使えない社員だったと思う。社長は優秀なビジネスマンで、竹を割ったような性格。私がミスをするたび大声で叱り、叱った後はケロッとしていた。けれど次第に叱る行為がエスカレートし、仕事中に1時間以上説教されることもしょっちゅうだった。その対象は私だけではなく、社長と同世代の男性も何かにつけて怒鳴られ、説教されていた。

そんなわけで、小さなオフィスの中はいつもピリピリしていた。私はいつ怒鳴られるかと常に緊張し、その緊張がさらなるミスを誘発した。私は仕事ができない自分を責め、いつも奥歯をギュッとかみしめていた。あるときなど、半年以上笑っていない自分に気がつき愕然とした。

そうして1年半ほど頑張った末、ついに限界が来た。ある日、何かの理由で朝から怒鳴られて、怒りにまかせて会社を飛び出した。そして、それきり仕事に戻らなかった(後日、謝罪と引継ぎはしたけど)。

もっと早くに辞めてもよかったのだろうけど、当時はそうは思えなかった。仕事に自分を合わせるのが当たり前で、合わない自分が不良品なのだと思っていた。社長も根はいい人なのだから。悪いのは迷惑をかけた自分なのだから。嫌なことから逃げては、いつまでたっても成長できないから、と。

当時は90年代の終わりで、まだ「パワハラ」という言葉もなかった。初めてその言葉を聞いたのはいつだろう。あの状況を「ハラスメント」と定義していいんだと知って、目からウロコが落ちるようだった。なによりも、怒鳴られることに対して、嫌だと感じていいんだ、自分が感じていたことは間違いではなかったんだと思えた。

書いてて気づいたけど、当時の私は自分の感じていることに正解とか間違いがあると思っていたのね。でも今の私はこう思う。自分の感じていることは、誰と比較することもできない、自分にとっての真実。感じたことに間違いはない。子供の頃「そんな風に思っちゃいけません」って言われたかもしれないけど、そんなこと絶対にない。もし自分が嫌だと感じたのなら、何よりもその気持ちを大事にしたい。その感情の奥には、もっと前向きな、光り輝く本心があるから。

アップリンクパワハラ訴訟のニュースを見たとき「ここもか…」と思った自分は、パワハラに慣れてしまって、感覚を麻痺させることでやりすごしていたのだと気がついた。だから昨日のニュースには、嫌だと思うことに声をあげる勇気を見た。私も声をあげていこう。新しい時代が始まった。

 

曇り空。一羽の鳥が飛んでいく。

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ファミリーヒストリー

このブログに父や母のことを書いたら、なかなか好評をいただいた。今日は母の命日ということもあって、ファミリーヒストリー風に、今生きている自分のことを考えてみた。

 

私の父は平壌で生まれた。当時は日本が朝鮮半島を植民地にしていた時代。多くの日本人が大陸で暮らしていて、父方の祖父もその一人だった。福島県生まれの祖父は東京の大学で土木を学び、結婚後一家で大陸に渡った。当地では橋や道路を作る監督のような仕事をしていたという。現在90歳の伯母は向こうでの生活を少し覚えているらしく、家にオンドルがあったことなどを懐かしそうに話してくれたことがある。

私の父がまだ乳飲み子だったときに、祖父は流行り病の腸チフスで亡くなった。それで私の祖母は4人の子供を連れて故郷の福島県に戻ってきた。たぶん昭和10年頃だと思う。いつだったか、伯母がしみじみとこんなふうに語っていた。「まだ戦争が始まる前だったからよかったのよ。戦後の引き揚げだったら、うちのきょうだいはみんな体が弱かったから、生きて帰れなかったと思う」。

私も本などを読んで、戦後の引き揚げがいかに凄惨を極めたかは想像できる。祖父が早くに亡くなったのは残念なことで、残された家族はその後大変な苦労をしたけど、もっと長い目で見れば、そのおかげで残された家族が命をつないだという可能性もある。そんなふうに考えると、人の運命は不思議と思う。

 

一方の母は群馬県の出身。母曰く、先祖は平家の落人だそう。確かに母の生まれた村はものすごい山奥で、ご先祖様は「さすがにここまでくれば追手が来ないだろう」と思ったのだと想像する。

母は4人姉妹の長女で、戦争で父親を早くに亡くした。祖父が亡くなったのは満州だったと聞いている。非常に体が丈夫な人だったそうで、真冬に夜間の見張りを体の弱い仲間の分まで引き受けて、そのせいで体を壊して亡くなったと聞いている。優しい人だったのだろうと思う。母は一家を養うために小学校の教師になった。

その母が若い頃、ある事件が起きた。その日は文化祭で、同僚の先生と帰り道を歩いていると、雨が降ってきた。そこへ1台のオンボロトラックが通りかかって、母たちに乗っていけという。運転していた男は同僚の先生の知り合いで、母は今ひとつ気が進まなかったものの、熱心に勧められて仕方なく乗せてもらうことに。荷台には幌がついていて、雨をしのぐことができた。ほかに居合わせた小学校の教え子2人と、知り合いのじいさんも荷台に乗せてもらった。

同僚の先生が先に降りたとき、母も一緒に降りたかったけど、男は家まで送ると言ってきかず、仕方なく送ってもらうことにした。母の村までの道のりは細くて曲がりくねった山道だった。しかし運転手の男はいいところを見せたかったのか、その山道を猛スピード走った。母が危ないから速度を落としてくれと頼んでも、目の色が変わってしまって何も耳に入らない様子。身に迫る危険を感じた母は、次のカーブにさしかかろうとする手前で、咄嗟に車から飛び降りた…!

次の瞬間、トラックは男を乗せたまま崖の下へダイブ。荷台に乗っていた教え子2人は、なんと着ていた服が木の枝にひっかかって一命をとりとめた。が、男とじいさんは助からなかった。母は脚全体をひどくすりむいて、傷跡を治すのに長い時間がかかったという。この事故は地元の新聞でも報じられ、母がひらりと車から飛び降りるところが、マントをはおったスーパーマンの姿で漫画に描かれたらしい。

私はこの話を子供の頃から何度も聞かされて育った。私は話の筋しか書けないけど、上州弁で語られる母の話には、もっと細かい描写があって味わい深かった。一緒に車に乗ったじいさんは昔熊に鼻をもがれて、煙草を吸うと顔にあいた2つの孔から煙がぷかーっと出ていたとか…。もうあの無形文化財のような語りは永遠に失われてしまった。

それはともかく、もし母が咄嗟の判断で車から飛び降りなかったら、母の命は助からず、当然父とも知り合わず、この肉体を持った私は生まれなかった。そう思うと、命は奇跡。いくつもの偶然が重なって今ここにある。

父と母と、ご先祖様にありがとう。

 

今日の夕方6時の空。1年前の今日、母は6時に流れる「夕焼け小焼け」を聞きながら旅立った。

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キャッツ!

昨日はアップリンク吉祥寺で映画『キャッツ』を見た。吹き替え版だった。

感想ですか? えーと…猫がたくさん出てきた(そりゃそうだ)。
特殊メイクがすごい。あの耳のリアルな動きはどうやって撮影したんだろう。肉体にぴたっとフィットした「猫スーツ」を着た俳優さんたちが、なんとも生生しかった。役は猫なんだけど、鍛え上げられた肉体は動物っていうより、ザ・人間!って感じだったな。

主役猫ヴィクトリアの女優さんがすっごいかわいくて、頭蓋骨の形がなんてパーフェクトなんだ! と思って、2時間ずっと頭の形に見とれていた(えっ、そこかい!?)。あとで調べたらロイヤルバレエ団のプリンシパルなんですね。美しかった~。吹き替えの葵わかなさんもとてもよかった。

私はあんまり海外の俳優さんに詳しくないんだけど、結構有名な人たちが出演していたのですね。一人ひとりの存在感が素晴らしい。ラストの「メモリー」は圧巻。私もあんな風に歌ってみたい。吹き替え版の歌も迫力があって素晴らしかった。

キャッツはすごい昔に劇団四季の舞台を見た記憶がある。私は演劇をよく見る方だけど、劇団四季とか東宝ミュージカルとか宝塚には全く関心が向かなくて、その時もたぶん友達に誘われて行ったんだと思う。歌や踊りは素晴らしいと思ったけど、やっぱり自分から観に行きたくなるような感じではなかったかな。

そんな私が好んで観に行ってたのは小劇場系やアングラ系で、ダンスだとコンテンポラリーとか舞踏をよく見ていた。これだから「マニアックな喫茶店のマスター」なんだよね…。私は明るくて華やかな世界よりも、しぶい世界の方が好きなんだな。ストーリーも明快なものより難解なものの方がいい(ものにもよるけど)。演劇を見に行く楽しみは、上演される内容もさることながら、自分と好みを同じくする人たちが集まる時間と空間を味わいに行っていた部分もかなり大きい。小劇場に行くと、なんか落ち着く。

じゃあ昨日なんでキャッツを見に行ったかというと、やっぱり猫が好きだから(^^)。私はバリバリの猫派で、昨日も映画を見ながら、色んな猫を思い出していた。

私の実家はなぜか野良猫が寄り付く家で、小さい頃から猫は身近な存在だった。あるときのこと、よくうちに来ていた猫が子猫を連れてきた。そして縁側に私たちを呼び出して、前足をきちんとそろえて「この子をよろしくお願いします」という感じであいさつをした。そしてその翌日、母猫は姿を消した。野良猫は自分の死期を悟ると姿を消すというから、たぶんあれは引継ぎだったのだと思う。今も記憶に残る、礼儀正しい母猫だった。

にゃー、猫飼いたいなあ! でもマンションだから、家に閉じ込めておくのがかわいそうで踏み出せない。あとお気に入りのカーテンをバリバリにされるのも怖くてな。

 

今までに出会った猫たちを思う。青空が目にしみる。

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マニアックな喫茶店

この前、私のブログをいつも読んでくださっている方から、私のブログに「マニアックな人たちが集まる喫茶店みたいな空気を感じる」とコメントいただいた。私も「ブログ更新しました」とFacebookに投稿すると、「いいね」の数の割にコメントが多くて、なんだか静かな熱気があるなと感じていたのだけど、なるほど、マニアックな喫茶店かあ、と腑に落ちた。

それはイメージするに、裏通りにひっそりとたたずむ小さな喫茶店(カフェではない)。お客さんの数はそれほど多くないけど、一人で来る常連さんたちが、それぞれ静かに好きな本を読んで長居したり、マスターである私とカウンターでマニアックな会話をしている感じ。

このブログはそこを目指したわけではないんだけど、コツコツ毎日書いていたら、いつの間にかそういうことになっていた。そもそも多くの人に読んでもらおうとか、誰かの役に立ちたいとか、生業のアレクサンダーテクニークを広めたいとか思って書き始めたわけではなかったので、アクセス数も一応みるけど、多くても少なくても、あんまり気にならない(逆に多いとビビるかも)。

書き続けているのは自分のためで、思考の整理とか瞑想みたいなもの。いちおう書くたびにFacebookにシェアしているけど、誰かとつながることもそんなに期待していなかったので、そこに人が集まってマニアックな喫茶店みたいな空気が醸され始めたというのが、つくづく不思議な感じ。たまたま種をもらったので、手近にあった容器に植えてみたら芽が出てきて、とりあえず毎日水やりを続けていたらこうなったのか、と思って眺めている。

この努力のいらない感じ、放っておいたらこうなったという感じ。一昨日私がぐるぐる悩みながら書いた「何もしない」は、もしかしてこういう状態を言うのじゃなかろうか。

何もしないと言いつつ、1000字程度を書くのに2~3時間費やしているけど。だから「何もしない」というのは、「思ってないことは書かない」とか「何かを目指さない」「誰かと比較しない」のような、書く以外に「余計なことはしない」という意味になるのかもしれない。

私がブログを続けられているのは、考えたり文章を書いたりするのが好きだから。それと、もらったコメントからさらに考えが深まっていくのが最高に面白いから。この循環を何かの役に立てようとしてしまったら、たぶん続かないだろうな。

こういう葛藤はきっと仕事をする上でみんなが抱えてきたんだろうなあと思う。お金とか人の評価を気にしなければ、みんなが好きなことして生きていけるものなのかな。現実はそんな単純なものではないだろうし、人にもよるから、わからないけど。

 

日暮れ前。雲の切れ間から放射状に広がる光。これから吉祥寺に映画を見に行ってきます。ホーント私、遊んでばっか! 

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「何もしない」が難しい

人生で一番難しいことは何かと考えたとき、それは「何もしないこと」ではないかと思う。何もしないで、ただそこにいること。もっと正確に言うなら、何もしないで、ただそこにいる自分にOKを出すこと。具体的に言うなら、仕事や役割のない自分にOKを出すこと。別の言葉で言うなら、ありのままの自分でいいと思うこと。

♪ありのままの姿見せるのよ ありのままの自分になるの

ホントにそうよね、ありのままの自分。だけど、それが人生で一番難しい。

ありのまま。赤ちゃんのときは、それができていた。ただそこにいるだけで、みんなが喜んでくれる存在。それが成長するにつれて変わってくる。歩けたと言っては喜ばれ、一人で何かができたと言ってはほめられて、もっと大きくなると、学校のテストでいい点を取ったとか、友達にやさしくしたとか、走るのが早かったとか、何かをしたことでほめられて。それは間違いなくいいことなんだけど、何かをしたことで存在を認められると、何もしないと存在を認められないのではないか、みたいな感覚が生じてしまう。少なくとも私はそうだった。

私は中学までマンガばっかり読んでいて、ものすごく学校の成績が悪かったけど、高校受験のときに生まれて初めて必死に勉強というものをして、やっとこさ地域で二番手の高校に滑り込んだ。おかげで「勉強ができなくて低くみられる」という立場からは逃れられたけど、自分が必死に頑張って成功した分だけ、今度は「自分より勉強ができない人」を低く見るようになった。そして「自分より勉強ができる人」を仰ぎ見るようになった。今もその癖が強く残っている。

年頃になると女性は見た目で優劣をつけられるようになるから、またそこでも低くみられないように頑張った時期があった(今はもうそういうのやめたけど)。そうすると、少し成果が出た分だけ「自分より上の人」と、「自分より下の人」を作ってしまって、そういう自分の心の狭さに苦しんだ。

会社で働きすぎてしまったのも多分その考え方の延長線上にあったと思う。何かできる人じゃないと存在価値がないみたいに思って、「何かをする」ことで必死でその場にしがみついてた。仕事の場でなければ、気が利く人でいるとか、親切でいるとか、明るいムードを醸すとか、ちょっといいこと言うとか。それができれば自分に存在価値があると思えた。いえ、思える、と現在形で言おう。

私にとって「何もしない」でいるのは、存在価値を奪われるような気持がする。けれども、もし自分のまわりの人が何もしない人でいても、私はその人に価値がないとは思わない。必要なら「手伝ってよ」と言うし、それが言えないとしたら、そこには別の問題があるはず。そう思うと、そんな躍起になって何かしなくちゃと思う必要はないのだろう。

「なにもしない自分」にも価値があると思えないままで何かしても、私の場合、やりすぎてしまったり、挙句に仕事ができない人を責めてしまいかねない。だからやっぱり何もしないでいる自分を認めることから始めよう。

 

写真は昨日の夕空。つかの間、天から梯子が下りてきた。

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重力と反重力

今日はローザ・ルイザとのオンライン・グループミーティングの日だった。今日の私の学びは、重力と反重力。私たちのカラダには、地球の重力による下方向の力と、同じだけの力で上方向に伸びていく、双方向の力が常に働いている。

そのため、まっすぐ立っているときなら、無理に背筋を伸ばす必要はなくて、自分の体の重さを地面に伝えてさえいれば、それと同じ力が逆向きにも働いて、自然とカラダが上方向に伸びていく。よく姿勢を正すために「天井から吊るされるように」と言われることがあるけど、同時に地面の方へ体の重さが落ちていくことも思うと、もっといいのではと思う。

ローザと一緒にこんな実験をしてみた。

立った状態で、足の裏で地面を感じてみる。しばらくそのまま感じ続けていると、膝や足首がゆるんで、より地面と足の裏がしっかりと密着するところへカラダが自然と動いていく。その自然な動きにただついていってみると、カラダの中で床と脚の力がつり合うポイントがあって、ほほう! と思いつつ、さらなる動きについて行くと、上体が上へ、そして脚が下へと同時に伸びていく。

それはまるでクシャっと丸めた紙が、手を離されることでふわーっと外へと広がっていくような感じ。時には、ギュッとよられたコヨリがほどけていくような動きも起きる。何回かやってみたけど、その都度違う反応が起きる。

ポイントは、感じたままに、自然に起きる動きについていくこと。自分で「こうあるべき」という形を作らないこと。

自分がいる空間とカラダの関係性を感じることも大切。自分が「部屋という立方体」の中にいることを意識しながらやってみたら、知覚の変化が起きて、とても面白かった。

重力と反重力のことは私にとって既知のことではあったけど、ローザの言葉でガイドされながら、みんなと一緒にやることで、一人ではできないことができるのだった。

今も椅子に座ってパソコンのキーボードを打ちながら、どの瞬間にも双方向の力が働いていると思うと、バランスが取れていい感じ。双方向の力は、自分からパソコンへ向かう力と、パソコンから自分へ向かう力もある。この2つの力のつり合いを意識してみると、どちらかに寄りすぎることがなく、モノと自分の間にちょうどいいバランスが生まれる。

2つの力のつり合いで思い出すのは、2年前に参加したボストンのリトリートの時のこと。森の中、裸足で大きな岩の上に立って、落ちるか落ちないかのギリギリのところでバランスを取って遊んでいた。すると、あるポイントで上半身の力が抜けてふわーっと上に伸びていったことがあって、まさに今日やった重力と反重力を体感したのだった。でも日常生活では習慣的な立ち方になってしまって、その時感じた重力を味方につけた楽な立ち方がなかなかできないのだった。

でも、いつもできなくてもいいのだと思う。「できないな」と思い続けられていることだって大事なことだし、プロセスを飛ばしちゃう自分に気づければ、飛ばさないことだってできるはず。それに、一度できたことはちゃんとカラダが覚えているものだから、いざというときに無意識にできたりもする。

 

ところで、ローザのオンライン・ミーティングに出ると、必ずあくびが出てしまう私だった。もちろん退屈だからではなくて、ローザを見ているだけでカラダがゆるんじゃうんだと思う。今日も前半あくびが止まらなくなってしまって、カラダってなんて正直なんだと思う。私もいつか見ているだけでカラダがゆるんじゃうような、そんな存在になりたいな。

 

今日の午後、雨が降り出す前の空。静止画でもダイナミックな雲の動きが見えるのはなぜ。

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