ぼちぼちダイアリー

とにかくなんか書いてみよう!

「何もしない」が難しい

人生で一番難しいことは何かと考えたとき、それは「何もしないこと」ではないかと思う。何もしないで、ただそこにいること。もっと正確に言うなら、何もしないで、ただそこにいる自分にOKを出すこと。具体的に言うなら、仕事や役割のない自分にOKを出すこと。別の言葉で言うなら、ありのままの自分でいいと思うこと。

♪ありのままの姿見せるのよ ありのままの自分になるの

ホントにそうよね、ありのままの自分。だけど、それが人生で一番難しい。

ありのまま。赤ちゃんのときは、それができていた。ただそこにいるだけで、みんなが喜んでくれる存在。それが成長するにつれて変わってくる。歩けたと言っては喜ばれ、一人で何かができたと言ってはほめられて、もっと大きくなると、学校のテストでいい点を取ったとか、友達にやさしくしたとか、走るのが早かったとか、何かをしたことでほめられて。それは間違いなくいいことなんだけど、何かをしたことで存在を認められると、何もしないと存在を認められないのではないか、みたいな感覚が生じてしまう。少なくとも私はそうだった。

私は中学までマンガばっかり読んでいて、ものすごく学校の成績が悪かったけど、高校受験のときに生まれて初めて必死に勉強というものをして、やっとこさ地域で二番手の高校に滑り込んだ。おかげで「勉強ができなくて低くみられる」という立場からは逃れられたけど、自分が必死に頑張って成功した分だけ、今度は「自分より勉強ができない人」を低く見るようになった。そして「自分より勉強ができる人」を仰ぎ見るようになった。今もその癖が強く残っている。

年頃になると女性は見た目で優劣をつけられるようになるから、またそこでも低くみられないように頑張った時期があった(今はもうそういうのやめたけど)。そうすると、少し成果が出た分だけ「自分より上の人」と、「自分より下の人」を作ってしまって、そういう自分の心の狭さに苦しんだ。

会社で働きすぎてしまったのも多分その考え方の延長線上にあったと思う。何かできる人じゃないと存在価値がないみたいに思って、「何かをする」ことで必死でその場にしがみついてた。仕事の場でなければ、気が利く人でいるとか、親切でいるとか、明るいムードを醸すとか、ちょっといいこと言うとか。それができれば自分に存在価値があると思えた。いえ、思える、と現在形で言おう。

私にとって「何もしない」でいるのは、存在価値を奪われるような気持がする。けれども、もし自分のまわりの人が何もしない人でいても、私はその人に価値がないとは思わない。必要なら「手伝ってよ」と言うし、それが言えないとしたら、そこには別の問題があるはず。そう思うと、そんな躍起になって何かしなくちゃと思う必要はないのだろう。

「なにもしない自分」にも価値があると思えないままで何かしても、私の場合、やりすぎてしまったり、挙句に仕事ができない人を責めてしまいかねない。だからやっぱり何もしないでいる自分を認めることから始めよう。

 

写真は昨日の夕空。つかの間、天から梯子が下りてきた。

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