ぼちぼちダイアリー

とにかくなんか書いてみよう!

ゴールをどこに置くべきか

今日は午後、伯母の入院している病院から電話がかかってきた。内容をかいつまんで言うと、早く退院してほしいという話だった。伯母は本来は入院の必要はないのに、今回は入居している老人ホームからの強い希望があって入院している。それはリハビリを期待してのことだったけど、その病院の制度上、希望入院の患者さんにはリハビリができないのだという。ついては、「ろうけん」を紹介しますが、どうしますか? と聞かれた。

私は「わかりました、検討します」と言って、次に老人ホームに電話をかけた。向こうでは「ろうけん、ですか…」と言って、ため息をついた。「ろうけん」は「老健」、介護老人保健施設。リハビリを受けながら社会復帰をめざす施設のことで、滞在の上限が3カ月などと決まっているらしい。「もしそこに入るとしたら、その間ここの入居費はダブルで支払うことになるんですよね?」と聞くと、「その場合、うちはいったん退去していただくことになります」との答え。えええ…?

施設では、療養中に伯母の脚が固まって動けなくなっていくだろうことを、とにかく心配してくれているのだった。でも施設のスタッフでは、十分なリハビリができる体制が取れない。新型コロナのせいで当面は訪問リハビリも受けられない。ああ、せめてコロナがなければ、と思う。

電話口の副施設長さんが私に聞いた。この人はベテランで、低くて安心感のある声の持ち主だ。「姪御さんは、伯母様にどこまで回復してもらいたいですか? やっぱり歩けるようになってほしいですか?」

「そうですね…」と言って、しばし考える。
そりゃあ歩けるようになったらいいな、とは思う。何より伯母本人が「歩けるようになりたい」と強く願っている。でも…歩けることをゴールにするのが本当にいいことなのだろうか。いや、正確には「いい/悪い」の問題ではなくて…なんて言ったらいいんだろう。

伯母は90歳。この1年半ほどの間に何度も転んで、そのたびに骨にひびを作っている。伯母に限らず、人はみな年を取って、骨も筋肉も衰えていく。中には亡くなる直前まで歩いて生活できるお年寄りもいるけれど、歩けなくなることも自然の経過ではないだろうか。

もし「歩けるようになる」をゴールにしてしまうと、どうだろう。がんばり屋の伯母さんは、無理をしてまた転んでしまうのではないだろうか。今回転んだのだって、歩きたいと強く願うあまりのことだったような気がする。

だからリハビリのゴールは「前のように歩けなくてもがっかりしないで、車イスで自由に動ける」がいいんじゃないかな。「歩けない自分を受け入れる」なんて、他人事だから言えるのかもしれないけど。できればもっと上手に伝えたいけど。でも、そこが大切なところだと思う。

だから、副施設長さんにはそんなような話をしつつ、「きっとトイレだけは自分でしたいだろうから、介助つきでトイレに行けるくらいに歩けるようになれば」と伝えた。

 

電話をしながら、1年前のことを思い出していた。母が末期の膵臓癌と分かったときのこと。治療を目指さず、死を受け入れることを決めたのだった。告知もせず、入院もせず、死を迎えるまで自宅で一緒に過ごすことを決めて、その通りにした。兄嫁は「もっといい病院があるから、ぜひ診てもらって。癌は治る病気だから」と熱心に勧めてくれた。私がなぜ積極的に治療しないのか理解できないといった感じだった。それについては理屈じゃ言えないんだけど、死を受け入れたことで、いま振り返ると、私も母もなんだか自由だった。私のやり方に反対していた兄嫁も、葬儀の時には「こういう生き方もあっていいわね」と言ってくれた。

「死なないこと」をゴールにしてしまうと、どうしても「何かあったら大変だから」となってしまう。自宅で母の介護をしていたときは、「死んでもいいから望みをかなえる」を前提に介護をしていた。こうした考え方はもう本当に人それぞれだから、自分のやり方が正しいとは言えないけれど。

 

明日には伯母の行き先をどうするか決めないと。ひとまず退院して施設に帰るのがいいんじゃないかな。

 

今日の夕空は重く垂れこめた灰色の雲。肉眼だとのっぺりして見えたけど、写真に撮ると濃淡が見えた。今日はきんぴらごぼうを大量に作った。

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